私たちが「絶望」という言葉を聞くとき、
多くの場合、それは単に
「がっかりした」「残念なことがあった」「ショックを受けた」といった、
表面的な感情を指すかもしれません。
しかし、これから語る「絶望」は、
もっと深く、痛みを伴うものです。
それは、これまでの人生で起きたあらゆる出来事、
例えば、いじめ、厳しく育てられた経験、会社の倒産といった、
自分が望まなかった状況のすべての原因が自分にあるという、
揺るがない事実に気づき、受け入れること。
他人のせいにも、環境のせいにも、いじめっ子のせいにもできない。
すべては自分自身に責任があったのだと、
受け入れざるを得ないほどに「腑に落ちている」状態を指します。
無自覚な「他責」がもたらす悪循環
この「絶望」の境地に達することは、並大抵のことではありません。
なぜなら、多くの人が「自分がまともだ」と心の底から信じて疑わず、
無自覚のうちに他人や環境のせいにしているからです。
もし今、あなたの人生で一つでもうまくいっていないことがあるとして、
それが「自分のせいではない」と考えているなら、
すでに思考が現実からズレています。
しかし、ここまで自分の思考に注意を払って生活している人は少ないでしょう。
だからこそ、自分が「他責思考」であるとは思いもよらず、
改善のしようがないまま、悪循環のループから抜け出せないのです。
人生を変えるための「主体性」という勇気
しかし、逆に言えば、
この真実に気づかない限り、
あなたの人生や現実は変わることはありません。
なぜなら、あなたの人生の責任はすべてあなた自身にあるからです。
「自分の責任」と聞くと、
理不尽だと感じるかもしれません。
世の中には、不可抗力としか思えない出来事もたくさんあります。
それでも「自分だ」と言い切る勇気は、なぜ必要なのでしょうか?
それは、問題の原因が他人や環境にあると認識した瞬間、
その問題はあなたのコントロール下にないものとなり、
自分で解決することを放棄してしまうからです。
まるで迷宮入りした事件のように、自分の手でどうすることもできなくなります。
自分の人生を自分で操縦していくためには、
常に問題が自分のコントロール下になければなりません。
これこそが「主体的に生きる」ということです。
そうすることで初めて、問題を自分で解決する可能性や希望が見えてきます。
自分の弱さと向き合う「絶望」
しかし、この主体性を手に入れるためには、
計り知れない勇気が必要です。
なぜなら、「すべて自分が悪い」という、
最も受け入れたくない真実と向き合わなければならないからです。
一時的に「誰かのせい」にすれば楽になれるかもしれません。
しかし、原因が自分にない状態では、自分自身を改善することができません。
これは、「他責」や「依存」と呼ばれる状態です。
では、なぜ人は自分の責任を取れないのでしょうか?
それは、自分が傷つかないように、
自分を守るために無意識的に「他責」を選んでしまうからです。
この根底には、自己肯定感の低さという「自分の弱さ」が潜んでいます。
幼い頃に受け入れてもらえなかった経験や、
学生時代のネガティブな経験などが原因で、
自分を肯定できず、
「被害者として生きるしかなかった」
「そこまで強くなかったから、他人のせいにして生きるしかなかった」と
感じている人もいるでしょう。
問題の本質を捉えずに、
ただ自分を守ることばかりしてきた結果、
私たちは成長できず、問題も解決できないまま、
堂々巡りの人生を送ってきてしまったのです。
つまり、
逃げ回って自分を守ることばかりしていた自分が、
実は現実や自分の人生を変えることをできなかった「犯人」にほかならない
——この真実こそが、ここでいう「絶望」の本当の意味なのです。
この絶望を受け入れ、自分の弱さを知り、そこから立ち上がった時、
あなたの人生は本当の意味で変わり始めるでしょう。
絶望を受け入れるときというか
気付いた時は
もうそれはそれ以上でも、それ以下でもないくらいの気付きがあります。
それは今まで自分が理解していたものと
まるでちがうものになるからです。
しかし、それは真実としか
言いようがない。
そうしないとすべての辻褄があわない。
逆に、そうしないと、説明ができない状態になります。
受け入れるというより
ただただ、「はいそうですね」というしかない状態です。
でも、その状態になったとき
その先には自分の人生は自分でいくらでも、いつからでも変えることができるという
限りない可能性と希望で満ちあふれていきます。


