私たちは、ときに「誰かのせい」で人生がうまくいかないと感じることがあります。
親のせい、社会のせい、上司のせい、過去の環境のせい。
その見方は一見もっともらしい。
それは疑いようのない事実。に思える。
だから、自分以外の誰かのせいにすることも疑わない。
ただし、この生き方は
同時に自分を苦しめる、生きづらさを抱えます。
それは自分以外の誰かが原因で
自分が苦しいとき
その原因は自分にないので
自分ではどうしようもできないという側面を持つからです。
自分でどうにかなることは
自分のコントロール下にあること
すなわち自分ができることにほかならないからです。
しかし、その原因が
自分以外の誰かにあるならば
その問題解決はできないに等しくなることを突きつけられます。
自己責任がもたらす自由と変革の力
「正しく見る」ということは、
その“自分以外の誰か”によって起こされた問題を自分に戻して、
現実をありのままに受け入れることでもあります。
そこには、時に残酷な真実が含まれています。
実は、自分が不幸だと感じていた状況も、
無意識のうちに「何らかのメリット」を得ていたがゆえに、自ら作り出していたということに気づくことがあるのです。
たとえば、自己肯定感が低い自分。
それは学生時代にいじめにあってきた
社会人になってからも仕事でミスばかりで
人間関係もうまくいかなかったとしたら
だから、自己肯定感が低いという理由
いわゆる、自分以外の誰かのせいにすることができます。
そうすることでうまくいかなかったことを
正当化して、自分を守ることができます。
しかし、これを角度を変えてみたときに、
自己肯定感が低いのは自分を守るために
自分が無自覚にしていたことだったのではないかということに気付きます。
自己肯定感を高く設定してしまうと
失敗した時や誰かに批判されたときに、
そうじゃない自分を突きつけられ、自分が傷ついてしまいます。
そうならないように、あらかじめ自己肯定感を下げておくことで
「やっぱりね、」
「ほら、言ったじゃん」と自分以外の誰かの加害者をつくって自分を守ることができる。しかも、これの都合がいいところは、万が一うまくいったら自分が努力したという手柄もとれてしまうので保険としては最適なのです。
しかし、そういった保険をかけることは
自分の問題を自分以外の誰かにセットすることになるので
問題を自分の力で解決できないという諸刃の剣になってしまいます。
しかし、こういったことは無自覚的に行われているので
自分でもそういうつもりがないのです。
要するに改善のしようがなく、困難があるたびに解決できず苦しむ。
しかし、その世界の創設者は実は自分だった
つまり、この問題をつくっているのは自分であるということに気付くことができれば
自分のことであれば、自分でコントロールできることなので
自分の力でこの問題は解決することができるという認識に変わります。
この主体性こそが、自分の人生を自分で切り開くベースになります。
誰かに助けてえるかもしれない。
失敗しても責任を逃れられるかもしれない。
そういった“被害者”の立場は、無意識に自分を守るための“嘘の世界”であり
その世界を築いていたのは他でもない、自分自身だった――。
この現実に気づくことは、とても苦しいものです。
逃げ出したくなるような感情を引き起こすこともあります。
けれども、それでもなお、その“正しい視点”を持つことで、
私たちは本当の意味での自由を得ることができます。
「自分が今いる世界は、自分が選んだ結果だった」と気づけたとき、
私たちははじめて主体性を手に入れます。
誰かに翻弄されるのではなく、自分の意志で世界を変えていける力を感じるようになるのです。
被害者という立場から解放されることで、
実は問題は自分がつくっていたもので、
自分が作っていた問題に、勝手に自分がハマって、自分で苦しんでいただけだったのかという
このくだらない残酷さに気付き、それを受け入れたときに
「自分の人生を変える力は、自分の中にある」と確信できるようになります。
自分は問題を解決できる力があるという真実が
自分に自然と勇気をくれるのです。
これはまさに、内面の変革が、外の世界の見え方を変えていくプロセス。
痛みを伴うかもしれませんが、
その痛みの先には、他者に依存することなく、自分の足で人生を歩くという“真の自由”があります。
最後に
「正しく見ること」は、単に事実を知ることではありません。それは、自分自身の内側にある“都合のいい解釈”や“守ってきた言い訳”と向き合い、それを手放すこと。そして、自分が人生の創造主であるという厳しくも力強い現実を受け入れることです。
その先には、痛みと同時に、圧倒的な可能性と希望があります。
“正しく見ること”は、真の変化の始まりなのです。