(1)正解を追い求めていた、過去の私
私は中学のときにいじめにあい、
高校もその流れで
ほぼ誰とも話をすることなく生活していたため、
社会人になってから、
いろんな人の価値観に振り回されっぱなしで
疲れた時期がありました。
Aさんがこうだと言えば、
「へ―そういうものなんだ。そうしよう。」
Bさんがあぁ言えば、
「へ―そういうものなんだ。そうしよう。」
一見、素直とも言えるのですが、
この根底にあったものは
誰にも嫌われたくない
という思いでした。
これは、AさんとBさんの意見が合っていればいいのですが、
AさんとBさんの考え方がちがうと、
Aさんにはそれで認められても、
Bさんには同じことで批判されることになります。
でも、私はAさんの意見に従っただけで、
Bさんに怒られて、
なぜそうしたんだと聞かれると
「Aさんがこう言っていたから・・・」と言えば、
「Aさんのせいにするな」とさらに怒られ、
とても理不尽な目に遭いました。
ここで私ははじめて
自分の意見をしっかりもたないと
理不尽に怒られるという経験をしました。
また、学校の勉強以外してこなかったせいで
一般常識に欠けていたので
職場の先輩から、何もせずに生活した奴といういう意味で
「おぼっちゃま」と呼ばれるようになりました。
今、考えたら、ただのパワハラですよね(笑)
そういう経験から
私は、いろんな物事に対して
自分の考えをもつために勉強をはじめました。
ただ、それは怒られるのが嫌だったからはじめただけだったので
現実逃避ではじめて、
ある種の正解探しをはじめてしまいました。
これにより、考え方の柔軟さがなくなってしまい
”この場合はこうでなければならない、
なぜならこうだから”と、
他人に批判されないように、
自分の中で理論をガチガチに固めていくようになったので
二元論、白黒思考になってしまい、
かえって、さらに生きずらくなる原因になってしまいました。
いじめに遭っていたため
私は無意識のうちに、他人から嫌われたり、否定されたりするのことを
極端に恐れるようになっていたにも関わらず
自分の立ち位置を決めて、それ以外はNoとすることになったからです。
ただ、Noと決めることはできても
他人から嫌われたり、否定されたりするのことを
極端に恐れることは変わらなかったので
自分の意見はあるけど、言えない自己犠牲、自己否定の日々を送ることとなり
いつか、完璧な理論を作り上げて、誰もがNoと言わないような人になろうと勉強に努力をしていきます。
今考えれば、とてもバカ臭いのですが
あなたの職場にも、この人が言えば、みんながうんうんという人いませんか?
それは意見ではなく、その人に従っているだけなのですが
その人の発言に、みんなが納得している場面から、
私はこう考えるようになったのです。
「誰もが納得する完璧な意見がある。
自分はそれは勉強不足ばために知らないだけだ。
もっと勉強して、いずれここにいる全員が誰も反抗できないようにしよう」と
意見は言いたい
でも、現状批判される。
他人に嫌われるのは、自分にとって怖いこと
だから、批判されない完璧な意見(正しい意見)を述べられる人になろう(完璧主義)
そんな日が来ることはないので
1つの価値観に執着し、それ以外を排除する
でも、他人に言えないわけですから、常にイライラする
この悪循環に私は陥っていきます。
特に、いじめに遭ったり、仕事がうまくいかなかったりすると、自分が正しいと思ったことに対して批判されたりするとたちまち自信がなくなる。しかも相手に嫌われたくないという気持ちが強いので
でも、いつも周りから賞賛されたり、褒められている意見ってどのような意見なのかと勉強。じゃあ、kれが正解なんだなとおもっても、ほかの人としゃべるとちがう意見が出て来たり、結局どっちがいいんだ?どちらにいったら誰からも批判されないのかな。
(2)正解というのは、人の数だけある
そもそもこれが正解だと言われているものでさえ
例えば、今の時代であれば、人は絶対に殺してはいけない
実際に殺せば自分も死刑になったり無期懲役などそれ相応の刑罰を受けることになる。
しかし、これが第二次世界大戦中であれば、敵の軍隊の人を殺しても懲罰を受けるどころか
良く殺したとほめたたえられる。正解なんてその時代や社会、一部のインフルエンサーが勝手に決めたものをメディアを使って広めているにすぎない。ということは今ある正しい
(3)正義は人の数だけある
ドラえもんが戦争のことを語った有名なシーン
つまり、現代でいうと
自分から見てどんなに悪人と思う人でも、つまり1つの物事でも立場がちがえば見方もかわるといそこに自分だけの答えがあって、それに固執してしまった場合。自分が正しい生き方以外

