「推し」に託す夢、そして自分自身を見つめ直す時

カウンセリング「大人の学校」

2011年のリーグ優勝を最後に、長く低迷が続く中日ドラゴンズ。
ファンとしては、そのふがいなさに
「弱い」「やる気あるのか」と感情的になってしまうのも無理はありません。

ヤフーコメントで
「アンガーマネジメント研修だと思って球場に観戦に行きます」という声があったように、
応援する側の感情も様々です。

しかし、客観的に見つめると、
この「推し」への熱狂や、それに伴う感情の起伏には、
私たちの心の内側が映し出されているのかもしれません。

どこまでが「応援」で、どこからが「依存」なのか?

「強いチームを応援すればいい」
「負けるたびにイライラするなら見なければいい」という声も耳にします。

まさにその通りなのですが、
それでも応援し続けるのは、単なる「執着」なのでしょうか?

私たちは、好きなチームに
「勝ってほしい」「打ってほしい」と期待を託します。
それはまるで、自分の人生の夢や願望を、
そのチームや選手に重ね合わせている心理に近いのかもしれません。

仮にチームが優勝したところで、
私たちの現実の生活が直接的に変わるわけではありません。

それでも、まるで自分の日常まで輝き出すかのような高揚感や充実感がある。
これは、髪型を変えたら急に自分が
モデルのようにイケメンになったと錯覚する感覚に似ているかもしれません。

しかし、冷静に考えると、
髪型を変えて他者からの評価が上がることを期待するのも、
結局は外部への依存です。

グッチやエルメスを身につけることで得られる「他者評価」への期待も、
同様に外部に軸を置いている状態と言えるでしょう。

私たちは、自分の力でコントロールできるのは「自分自身」だけであるにもかかわらず、
他人や外部の事象に過度に執着することで、
コントロールできないことに振り回され、
うまくいかないときに感情が引っ張られてしまいます。

好きなチームを応援することは素晴らしいことです。
しかし、「応援しているのは自分じゃないし、勝負事だから仕方ない」という
線引きを持つことが、健全な関係性を保つ上で非常に重要です。

「サクセスストーリー」に自分を重ねて、現実から目を背けていないか?

「若い選手が将来成長してチームを強くしてくれる」という期待は、
まるで「全然ダメだったやつが一生懸命努力した先に人から認められていく」
というサクセスストーリーを夢見るようです。

自分の現実ではなかなかそうはいかないからこそ、
そんな選手やチームを見て「励まされたい」という思いがある。

これもまた、ある種の依存と言えるかもしれません。
自分の人生を自分で変えられない、
自分で自分を満たせないと感じるから、
好きなチームに勝ってもらって、その喜びで自分を満たそうとする。
それは、ストレス発散であり、一時的な現実逃避にもなり得ます。

しかし、肝心なのは、その間も「自分自身」は全く変わっていないという事実です。
自分が変わらない限り、現実もまた、変わりません。

幸せになるために生きているはずなのに、なぜ「生きづらい」のか

仕事とプライベートを切り離し、
仕事は「我慢料」だと割り切る生き方をしている人もいるかもしれません。

しかし、私たちは幸せになるために生きています。
仕事もプライベートも、どちらも私たちの人生の一部であり、
どちらも妥協してはいけない大切なものです。

「現実から逃げているだけなんだ」という構造に気づくことができれば、
やるべきことは「自分を変える」ことしかありません。
自分が変わらないから現実も変わらないのです。

そして厄介なのは、この「逃げ」が無自覚であることです。
無自覚だからこそ、変えようがありません。
「こんなに頑張っているのに現実は変わらない」
「生きづらい」「人間関係が苦しい」。

これらの問題を、どうにもならないことだと諦め、
無自覚のうちに「人のせい」にしてしまっていることはありませんか?

自分は悪くない、と現状を肯定してしまう。
※そんなつもりはないと思っているかもしれませんが、そもそもここに自覚がない方もします。

しかし、自分の人生なのですから、
最終的にコントロールできるのは自分自身だけです。

この問題を「自分ごと」として捉えなければ、
いつまで経っても問題は解決せず、現実は変わらないままです。

「推し」は、人生を豊かにしてくれる素晴らしい存在です。
しかし、そこに自分の人生の全てを委ね、現実から目を背ける手段にしてしまっては本末転倒。
私たち自身の幸せは、私たち自身の手で掴み取るものなのです。

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